2015年9月7日月曜日

「花はんめ」たちの ”せんそうはんたい”

編集中だがこれはいかなければと、
土曜日、川崎の桜本でおこなわれた
ハンメたちの「せんそうはんたい」デモを
撮影してきた。

そう、「花はんめ」の舞台。

「国会前に行きたいけど行けない、
じゃあここでやろうと!」と実現した。

識字学級で学んだ実力を発揮、
切実でなんともあじのある「せんそうはんたい」。

ハンメのシュプレヒコールに
賛同する人々が答える。

ハンメたちが中心のデモは
なかなか素敵だった。

「花はんめ」の時は若手(70代)笑!
だったハンメたちが先頭に立っていた。
その車椅子をおしているのが、かつてハンメたちを
地域で支えていた若者の子どもたち。

ちょっと感動的だった。

国会へ行けなくても、桜本に行けなくとも
自分の街で、自分の家で、自分の心の中で
小さな一歩を踏み出せば…。


なんとも言葉にすると
薄っぺらな感じがするが
私はとにかく目の前の編集をがんばります。






2015年7月10日金曜日

沖浦和光さんの果てしない夢!


瀬戸内海、村上水軍の海の民。
自分のルーツをそう語る沖浦和光さんが
2015年7月8日に亡くなった。

 お連れ合いの方から
「沖浦が気に入っていた映像を手に入れたい」と
間接的に連絡があった。

2000年に沖浦さんと一緒に旅をしながらつくった
「沖浦和光が語る被差別民が担った文化と芸能
〜日本文化の地下伏流〜」



知らないことだらけだったが出来上がった時に
「ようまとめたな〜」と褒めてもらったことを思い出す。
どうやら数ある映像の中で最も気に入ってくれていたそうだ。
本当にうれしい。

「ダァ〜、バァ〜」という言葉を混じえ、手振り身振りで
「歴史は上から見るんではなく下から見なあかん」
と語る姿は少年のような印象だった。

自分の枕でないと寝られないとか
撮影の合間には押し相撲の勝負を挑んでくるなど
無邪気な一面を持っていたことを思い出す。

ひとりで追悼上映。



差別をなげくのではなく、日本の文化や芸能を
被差別民の視点から紐解く沖浦さんの語りは
何かふさがれていた壁に穴を開けてくれたような気がした。

徹底的にフィールドワークにこだわり
文献に残されていない口伝を聞き歩き
豊富な知識で地下伏流の歴史を掘り起こした功績は
本当に素晴らしいと思う。

私もその人柄、考え方に大きく影響を受けた。

ずっともう一回撮ってみたいと思っていたが
それは叶わぬこととなった。

映像の最後で沖浦さんに ”夢” を聞いた。



「夢と言われても困るんだけどね。
まあいつも夢見て歩いているようなもんもんじゃないこれ、
やっぱし私今の世の中に不満足やし、
七十何年も生きてきたけどしんどい戦争もありましたし、
戦後の大動乱期でしょう。
ほいで今はなんかバブルかなんか、
ガタガタの世の中一体これはどないなるんやと。
なんとかせんといかんとそういう思いで生きてきて、
だから青春の志はまだそのまんまですな。うごいてないこれ、
まだまだ死に切れんとまだやり遂げることはたくさんあると、
だからまだまだファイト満々ですわな。
永遠に夢を…向こうはてなし山脈というんやけどな、
高野山の方。
夢は果てし無しとこういうことじゃない。あははは〜」


沖浦さんの志をしっかり受け止めたいと強く思う。

近いうちにぜひ追悼上映をやりたい。


2015年4月10日金曜日

「SAYAMA」ソウルを行く!


「アンニョンハシムニカ
その先が出てこない。

3/28〜31まで、まだ少し肌寒いソウルに行ってきた。
ソウル・インデペンデント・ドキュメンタリー映画祭に「SAYAMA」が
招待されたのだ。
 匂いや食べ物、ハングル、人々の雰囲気など私にとっては馴染み深いものだ。
しかし同時にまるで他人事のように遠い世界のことでもある。
 日本では「金聖雄(キムソンウン)」とあたりまえに名乗っているが
実はこの名前17歳の時からの名前、未だに発音に自信がない。
金浦空港に迎えに来てくれた映画祭関係者にムニャムニャ〜
自分の名前をつげるとなぜかじわっと脇に汗がにじむ。
深い緑色のパスポートをリックサックのポケットにしまいながら
自分という不確かな存在を確かめる。

 そんな複雑な思いとは裏腹にソウルの旅は楽しいものだった。
とりわけ作り手やスタッフたちと毎晩の飲みニケーションは刺激的だった。
 映画祭は韓国の作品が中心で40本ほどが上映。
そのほかにアジア枠で中国、台湾、そして日本から
3本のドキュメンタリーが招待された。
印象的だったのはスタッフ、観客ともに若い!
さらに上映後の質問にみんな積極的に手が上がる。
内容についても製作についてもこの機会に
何かを持ち帰ろうという熱が伝わってきた。




 特別プログラムとして中国、台湾の監督
そして「三里塚に生きる」の代島監督
「私たちに許された時間の終わりに」の太田監督とのトークセッションも企画され、
それぞれの製作過程や配給の方法などについて語り合った。
どの国もドキュメンタリーをとりまく現状は厳しいという、
寂しい共通点も再確認(笑)。
しかしあらためてこういう映画祭を続けること、
いい作品をつくってひとり一人に届けるというシンプルなことを
続けることが大切だと感じることができた。

 あっという間の4日間、ずっと通訳をしてくれたジョンアと
スタッフのスジと記念撮影。心から「カムサハムニダ」。



 最後まで手を振るふたりを後に、
リックサックのポケットから深い緑色のパスポートをだし、
私が生まれ育った国、日本へ向う飛行機に乗り込んだ。